こんにちは、むぎまるです。
20代の頃に買ったボブ・マーリーのTシャツが、長い間家にしまったままになっています。
レゲエが好きだったわけでも、ボブ・マーリーに詳しかったわけでもありません。上野のお店で勧められて買い、結局ほとんど着ませんでした。
じゃあ、何で買ったんだろう。
40代になって昔のお金の使い方を振り返ると、このTシャツのような買い物がいくつも思い浮かびます。欲しかったはずなのに、買った後はそれほど大事にしていない。僕は物よりも、買ったときの気分が欲しかったのかもしれません。
派遣やフリーターとして働いていた頃の生活と、給料が残らなかった話は、前の記事「遊ぶお金さえあればよかった」に書きました。今回は、なぜあれほど使っていたのかを考えてみます。
タイトルの「ドーパミンに支配されていた」は、次々と刺激を欲しがっていた当時の自分を表す比喩です。浪費の原因を医学的に説明する話ではありません。
欲しいものより、人からどう見えるかが気になっていた
今振り返ると、20代の僕はかなり承認欲求が強かったと思います。
認められたい。格好よく見られたい。すごいと思われたい。その一方で、誰かの役に立ちたいし、嫌われたくもありませんでした。
人からどう見られているかが気になる。自分で満足していても、それだけでは足りなかったんだと思います。
その気持ちは買い物にも出ていました。自分が好きかどうかより、これを持っていたらどう見えるだろうと考える。しかも当時は、そうやって選んでいることにも気づいていませんでした。
ブランド品を身につけている自分が好きだった
GUCCIやBVLGARI。ブランドの財布、アクセサリー、洋服にもお金を使っていました。
そのブランドがどんな歴史を持っているか。何がよくて、その値段なのか。そういうことを理解して買っていたわけではありません。
有名だから。ブランドだから。持っていたら格好いいから。
ブランドが好きだったというより、ブランド品を身につけている自分が好きだった。
今の僕には、この言い方が一番しっくりきます。物を選んでいるつもりで、人に見せたい自分を選んでいたのかもしれません。
もちろん、その品物が好きで買う人もいます。僕の場合は、好きという気持ちの中に見栄がずいぶん混ざっていたという話です。
好きだった車にも見栄はあった
18歳頃から乗っていたのは、2000ccを超える古いセダンでした。燃費も悪く、税金や車検にもお金がかかる。当時の収入を考えると、明らかに背伸びをしていました。
ただ、乗ったこと全部を失敗だったとは思っていません。愛着もありましたし、いろいろな場所へ行った思い出もあります。
それでも「この車に乗っていたらどう見られるか」という気持ちは確かにあったと思います。車が好きな自分と、よく見られたい自分。その両方がいました。
車の詳しい話は、また別の記事に残すつもりです。
1,000円札がなくなっても何も感じなかった
大きな買い物だけではありません。日常でも、1日1,500円程度は使っていました。
タバコ、酒、お菓子、ジュース、コーヒー。何も考えずコンビニに入って、気になったものを買う。1,000円札がなくなることに、特に何も感じていませんでした。
1日1,500円なら、1週間で約1万円です。それとは別に、飲みに行けば1回2万円程度。ギャンブルでも1回2万円程度を使っていました。
こうして書くと、そりゃ残らないよなと思います。でも当時は、使いすぎているという意識すらほとんどありませんでした。
毎日の小さな買い物も、飲み会やギャンブルも、その場で欲しい気分を手に入れるためのお金でした。後からまとめていくら使ったかを考えるより、今楽しければそれでよかったんです。
払う方法が見つかると、買っていい気になった
買い物の金額感覚も、今とは違いました。1万円、2万円、3万円くらいなら、欲しいと思えば現金で買う。3万円を超えて一括で払うのが苦しくなると、クレジットカードを使っていました。
さらに金額が上がれば、月々いくらなら払えるかを考えてローンを組む。総額や利息より、毎月の支払額しか見ていませんでした。
欲しい気持ちはそのままで、払う方法だけを探していたんですよね。
お金の知識がなかった当時の僕にとって、ローンは悪魔の契約みたいになっていました。仕組みを分かって使うのではなく、目の前の欲しいものを手に入れるために使っていたからです。
ローンそのものを悪いと言いたいわけではありません。自分が何を約束して、いくら払うのかもよく考えていなかった。その使い方が危なかったと思います。
上野で買った服は、買った瞬間が一番うれしかった
当時は、なぜか上野へ洋服を買いに行くことにハマっていました。
リーバイスのジーンズを高い金額で買ったり、その場で気になった洋服を買ったり。買った瞬間は満足するのに、2回か3回くらいしか着なかった服もたくさんありました。
そんなに着ないなら、買わなくてもよかったはずです。でも買うときには、それが分からない。
服を着て過ごすことより、買うという行為で満足していた部分もあったと思います。
レゲエ好きでもないのに買ったボブ・マーリーのTシャツ

その中でも忘れられないのが、最初に書いたTシャツです。
上野で洋服を見ていたとき、店員さんにボブ・マーリーのTシャツを勧められました。
僕はレゲエが好きなわけでもありません。ボブ・マーリーに詳しいわけでもありません。それなのに、勧められるまま買いました。
結局ほとんど着ず、長い間家にしまったままです。ボブ・マーリーにも「何で買ったの?」と聞かれそうです。
店員さんが悪かったとは思っていません。自分が本当に欲しいかどうかも分からないまま、その場の雰囲気で買ったのは僕です。
今考えると、このTシャツは当時の僕をよく表している気がします。自分の好きなものを選んだつもりが、誰かのお勧めをそのまま持って帰ってきている。
服としてはあまり出番がなかったのに、昔の自分を思い出すきっかけにはなっています。まさか、こんな形で出番が来るとは思いませんでした。
欲しい、買う、少し満足する。また欲しくなる
ゲーム、ギャンブル、飲み会、酒、タバコ。車や洋服、ブランド品。使い道はバラバラでも、自分が求めていたものは似ていたと思います。
刺激が欲しい。人からよく見られたい。今すぐ満足したい。
欲しい → 買う → 少し満足する → また欲しくなる
買ったときのうれしさが落ち着くと、また違うものが気になる。手元には物が増えているのに、気持ちは次へ向かっていました。
「ドーパミンに支配されていた20代」と言いたくなるのは、この感じです。自分で選んでいるつもりで、目の前の欲しい気持ちにずっとついていっていました。
もちろん全部が見栄だったわけではありません。楽しかった時間も、買ってよかったものもあります。ただ、何のために使っているのかを分けて考えることが、当時の僕にはありませんでした。
今は、自分と家族の暮らしに何が残るかを考える
40代になった今も、欲しいものはあります。MacBookなどの機器も買いますし、家族旅行や食事にもお金を使います。
昔と変わったのは、買う前に考えることです。
昔は「これを持っていたら、人からどう見られるか」。今は「これにお金を使ったら、自分や家族の生活がどう良くなるか」。
機器を買うなら、自分が何に使いたいのか。旅行なら、家族とどんな時間を過ごしたいのか。誰かに見せるためではなく、自分たちの暮らしの中で使う場面を考えるようになりました。
欲しいものを我慢することだけが、お金を大切にすることだとは思っていません。気に入った服も、好きな車も、旅行も食事も、本人にとって価値があるなら大事な使い道です。
ただ、今の僕は一度立ち止まりたい。
これは本当に自分が欲しいものなのか。
誰かによく見られたいだけなのか。その場の刺激が欲しいだけなのか。それとも、自分にとって本当に価値があるのか。
あのTシャツを買う前に、このくらい考えていたらどうなっていたでしょう。少なくとも、自分がレゲエを好きかどうかくらいは確認できたはずです。
投資を知る前に、自分のお金の使い方を知りたかった
昔の買い物を思い出すと「あの頃の自分、ほんと何やってたんだろうな」と思います。
でも、その20代を全部なかったことにしたいわけではありません。車で出かけた思い出もありますし、楽しかったことまで無駄だったとは思いません。
あの経験があったから、今は買いたい気持ちの中に見栄が混ざっていないかを考えられます。自分にとっての満足と、人からの評価を少し分けて見られるようになりました。
当時の僕にまず必要だったのは、投資やNISAの知識よりも、自分が何のためにお金を使っているのかを知ることだったと思います。
そこが分からないままだったら、給料が増えても、きっと使う金額が増えていたでしょう。
では、そんな僕がいつから「使うこと」より「残すこと」を考えるようになったのか。
次は、その頃の話を書こうと思います。
